|
||||||||||||
五條市西吉野町の案内(宿のオヤジのブログ西吉野関連を手直し) | ||||||||||||
太平記の時代 南朝の夢の跡 1 五條市西吉野町北曽木の賀名生(あのう)梅林の開花具合を下見に行ったついでに、谷向かいに有る南朝の史跡を見てきました。 岡の上、奈良県立五條高校の賀名生分校跡地に建てられている石碑には、南朝三帝賀名生皇居之址と彫られています。 鎌倉時代末期から室町時代にかけての太平記の時代、建武の新政瓦解後、京を逃れた後醍醐天皇が南朝、すなわち吉野朝を起こし、京都の足利室町幕府擁する北朝との対立がおこりました。 ここ賀名生は南朝方が吉野山を攻められ逃れた後、拠点とした所です。 岡の一番高い所には、後醍醐天皇の側近、南朝の公家方の大黒柱ともいうべき北畠親房公の墳墓があります。 「神皇正統記」を著し、後醍醐天皇亡き後も京への帰還を目指し奮闘、すごい生き様だと共感を覚えます。 この五輪塔は後世のものでしょうが、つつまれた雰囲気と重々しさに、感じるものがあります。 一段さがつたきわにはひっそりと、二百十人塚があり、その碑文には、 「延元正平の昔、南朝擁護の志に燃えて、宇智、吉野、更に四条畷にまで敢然と起って戦い壮烈な最後をとげた郷土の忠臣210人の忠魂を弔い、その冥福を祈り、延徳3年、西俊、珍阿の両名が、本願となりこの石塔を建て供養したもので、古くから210人塚とよんで、語り伝えられている」とあります。 山深い里の住人が忠義の志に燃え、それを貫徹し、壮烈な最期をとげるというのは・・・ 言葉では言い表せない感慨深いものがあります。 そして、日清戦争から大東亜戦争までの戦没者をお祭りする忠魂碑も、砲弾を前にすえひっそりと。 |
||||||||||||
|
||||||||||||
太平記の時代 南朝の夢の跡 3 |
||||||||||||
五條市西吉野の賀名生梅林(あのうばいりん) 登り五條市中心部の本陣交差点から国道168号線を十津川・新宮方面に南下、およそ8キロあまり、時間にして15分ほどで、賀名生梅林の登り口である、西吉野町和田に至ります。 トンネルを抜けるとすぐ右側が賀名生梅林への入口となりますが、梅の花のシーズンになりますと通行規制もあり、山すその駐車場に車を停め、徒歩で急勾配の山の斜面を周遊となりますので、結構ハードです。 梅林の中に人家が点在、ちょっとした谷間も梅で埋め尽くされ、見渡す限り梅また梅の花。 口の千本、一目万本、東雲千本などと名付けられてる見所ポイントがありますが、過言ではありません。 2万本は越えるといわれている、奈良県では最大の梅林です。 北曽木山の天辺付近の梅の花も、たまらなくなるほどきれいです。 青い空に映えていい感じ。 |
||||||||||||
五條市西吉野の賀名生梅林 降り |
||||||||||||
五條市西吉野の柿山五條市西吉野の白銀地区、柿生産中心地区の様子を見に行ってきました。
五條・西吉野・下市一帯にかけて、30年ほど前から整備された五條吉野国営総合農地開発事業(パイロット事業)の中枢で、日本一といえるほどの柿の地区産地となっています。 一の木ダムという柿山へのかんがい用のダムが作られ、その先にはでっかい西吉野柿選場があります。 ダムを渡った所の公園は、見晴らしもよく、紅葉がきれいです。 そこから少し登ると、奈良県果樹振興センターがあり、あたり一帯、見渡す限りの柿の山また山! 残されてる緑の木は防風林なのか?柿畑の境界なのか? センターでは、広大な敷地でいろんな柿が栽培研究されています。 併設された柿博物館(そのまんま・・・)では、いろんな展示がされ、柿についての知識を深めることが出来ます。 詳しくは奈良県果樹振興センターでご確認ください。 |
||||||||||||
五條市西吉野 津越の福寿草 |
||||||||||||
55年ぶりのお客様と西吉野第一発電所へ3月のはじめにご予約いただいて、ワクワクしてお待ち申し上げていた、55年前の昭和28年に当館にご滞在いただいたお客様が、ご夫婦で元気におみえになられました。
若かりしころの赴任地めぐり、押し付けがましかったのですが、運転手としてお付き合いさせていただきました。 この写真は五條市霊安寺町の御霊神社の森。 奥様が嫁いで来られて、ほんの数日住まれた所なのですが、ここあたりだろうというだけで、お住まいはわかりませんでした。 西吉野賀名生(あのう)の和田という所に3年間住まれたということでしたので、確認したのですが、ちゃんとした場所がなかなかわかりません。 92歳のおばあさんが出てこられ、お話を聞いてわかりました。 お子様も生まれたという思い入れ深いお家だったのでしょうが、道路拡張のため削り取られ、残念ながらありませんでした。 そして、一番の目的地である西吉野黒渕にある電源開発の黒渕えん堤と西吉野第一発電所へ。 ご主人はこの工区の監督と設計などを担当されたそうで、いろいろ興味深い知らないお話をお聞きすることが出来ました。 戦後間もないころの人海戦術による大工事、さぞや大変な工事だったと思われます。 五條の町でも、その時の活気がいまだに語り草となってます。 山手の谷間ですので桜も遅咲き、きれいに咲いてお二人をお迎えです。 説明板を見ますと、太平洋へ流れる熊野川水系の水を猿谷ダムで貯水し、その水を10キロにも及ぶトンネルで分水嶺を越え北に流し、この西吉野第一発電所で落下させ発電。 その水を黒渕えん堤で取水し、トンネルで西吉野第二発電所に送り再度発電。 その水は紀ノ川沿いを潤し、さらには大阪府の南部へも灌漑用水として。 知ってみると戦後復興を担った、壮大な計画の下での工事だったんだと感無量です。 |
||||||||||||
まだまだ情報不足ですが、気長に追加していきたいと思います。 | ||||||||||||