維新胎動の地というと、山口県の萩を思い浮かべてしまいますが、明治維新の魁(さきがけ)天誅組の五條代官所襲撃が行われた五條市にも、旧の大塔村が加わり、維新胎動の地となっています。
五條から南へ走り、南朝にゆかりの深い西吉野の賀名生(あのう)を過ぎ、険しい天辻峠のトンネルをくぐり大塔地区に入ると、左側に大塔郷土館があり、維新胎動の地の碑と大塔宮護良親王の騎馬像があります。
その由来説明は、設置された説明碑にわかりやすく表現されてましたので、そのまま引用させていただきます。
維新胎動の地の由来
南北朝…鎌倉幕府追討を企てる「大塔宮護良親王」は、元弘元年(1331年)元弘の乱が起こると、笠置山に参向して父「後醍醐天皇」を助けたが、笠置山が陥落すると幕府軍の追補を逃れて、十津川・吉野・熊野等々を転々と流浪して必死に反幕勢力の糾合に努めた。この間、大塔村辻堂・殿野に入り、土地の豪族「戸野兵衛」「竹原八郎」をはじめとする村人の手厚い加護を受け諸国に幕府追討の「令旨」を発し、ついに鎌倉幕府の偉業(建武の中興)を成し遂げた。
天誅組…攘夷運動が激しさを増した江戸末期文久三年(1863年)「中山忠光」「吉村寅太郎」ら反幕勢力は「天誅組」を旗揚げし、激しい倒幕運動を展開した。五条で決起し代官所を襲撃した後、交通の要地・物資の集散地であった「天辻峠」に本陣を構えた。この地方きっての富豪であり有権者であった「鶴屋治兵衛」をはじめ村人は居宅や人力を提供し協力を惜しまなかった。しかし、幕府軍の追補厳しく志半ばにして夢破れたものの、「維新運動のさきがけ」として讃えられている。
ここに書かれたように、南北朝太平記の時代と幕末維新の重なりがありますから、その思いの重さ、舞台というものを感じないわけにはいられません。
その少し上へ上がったところにある、天辻維新歴史公園には、天誅組本陣跡碑と隊士の辞世の句碑などが建てられています。
天誅組の呼びかけに応じて、十津川郷士を引き連れ参加したものの、京の政変のため逆賊となったため、やむなく離脱し、その責任を取って自刀した野崎主計の「討つ人も 討たるる人も 心せよ 同じ御国の 御民なりせば」の辞世の句碑が、なぜか心に残りました。
天辻峠は紀伊山地の分水嶺。
ここから南は山また山の地で、はるかかなた、黒潮洗う太平洋まで延々と。
歴史と信仰に彩られた、不思議なゆったりした世界です。